33歳、断片回顧録、己。

  断片回顧録、33歳、己。
そう、安定剤を服用して、やっと眠りについた。早く寝ないと、きっと今のままでは、己は死ぬると、感じた。
一人で孤独になって、布団に入って&のたうち回っていた。
思い出せば、己の小さい人格・性格でもあった。
借金、仕事、そして、留守番と遊び、馬鹿な人間であった。
遊びだと言っても、自宅に居るだけであり、常に、麻雀が一番に都合が良かった。
で・・麻雀で「「心も体」」も壊れてしまった。
だが、己の未来で、己の体も心も、完全に消え去ってしまう事には、全く気づいていなかった。
医師と言えど、人間の体を救う事であったし、人間が{{{死ぬる}}事を手伝う時期でも無かった。
今は、現在は、{{如何に「人間は死ぬるか}}でもあろう。
「「安楽死」」、「「尊厳死」」などなどと言われるが、今から、45年前には、「「死」」を語る事が、忌み嫌われていた時代であったと、思う。
まして、現実には「心」」に触れるなんて、まだまだでもあった。診療内科などとも、言うが、まだまだ、「「死」」については、もう少し後々でもあったであろう、語るのは、である。
全く、己の「「死」」なんて、考えない。
厳密には、当方の出張中には、20歳の男性が「「胃癌」」で死んでるのだが、己は、自分自身は、無意識的に違った人間であると、思っていたのであろう???。
今の現在でも、そう、人間は「「死について」」は、あまり語らない。
己は、安定剤を服用して、寝たし、翌朝に目覚めると、己の体の疲れは取れていなかった。
体の「「疲労、全身倦怠感」」、ずっと、続いた。仕事も、疲れ果てるのだった。
{{だが、だが、己の最大の「「教科書」」ともなった。}}。
((これまで!!!))。

「「断片回顧録」」、32歳、己。

  32歳の終わり、己の誕生日前であった。33歳の直前である。
その場所にて、諸症状でぶっ倒れてしまい、{{死ぬるかも}}と思ったが、仕方が無い。
何もする「「術」」も無かった。
足腰も動かずに、独りで呻きながら、うずくまっていたが、己の頭には、早く寝る事だと思ったし、それだけであった。眠らないと、死ぬる、死ぬる、死ぬる、死ぬる、それだけで有った。
だが、眠ろうと思えば、思うほどに、心も体も焦ってしまい、苦しくなり動機で、また、死ぬると思うだけであった。
電話も有ったが、電話まで歩けなかった。
電話まで、歩けないが、何とか、這いずり回って、電話にまで辿り着いた。廊下を、這って動いた。
当直の看護師さんに、ある量の安定剤を服用と考えて、電話で指示して持って来るように願った。明日は仕事である。
やっと、看護師さんが、己の頼んだ薬を持って来てくれた。直ぐに、飲んでから眠れると思ったが、眠れずに、駄目だ、駄目だ、死ぬる、死ぬる、と、10分、15分???が過ぎたであろうか。
女房、子供達は、実家に帰って居なかった。俺が一人であった。
孤独な夜も、時間の過ぎた後には、いつの間にか、寝ていた。
安定剤を飲んでから、翌日は、元気で仕事を開始と考えていたが、全くと、己の希望通りには、ならなかった。
さて、さて、翌日は、目覚めの後も、疲れが取れずに、何だか、ふんわりとして、仕事も疲れて大変だった。
これから、当方の「「苦難」」の道は、また、又、始まった。
33歳の{{直前}}であった。
((これにて))。

「「断片回顧録」」、開業1年、己。

  とにかく、仕事の事のみ、頭に入っていた。他の事は、全くと考えなかった。
大きな借金を担いだのは、己であった。
とにかく、金は無し。銀行が、私を待っている。支店長代理が、私を見てから、こんな{{若ゾウに、大金を貸して良いのか}}とボヤイていたらしい。そう、無理もない。
当方は、とにかく、働く以外の事は考えなかった。
だから、己が遊ぶなんて、考えた事も無かった。ひたすらに、働いた。やがて、直ぐにでもあったが、知り合いから、麻雀を進められて、麻雀にのめり込んだ。麻雀は面白と思う。でも、でも、覚えた人でないと、{{面白い}}と、言っても、理解できない。
近くの人で、これまた、麻雀が好きで、毎日、毎日と当方の自宅へやって来た。しかも、兄弟がやって来た。
結構と「「掛率」」は高くて、数人で麻雀をしていたが、一人は、{{行くへ不明、一人は、自動車を売ってしまった}}のであった。
その頃は、兄弟が二人とも、有名人であったし、当時で聞けば、泣く子も黙るくらいの人間だった。
弟が、また、「「アク=悪??」」が強くて、皆は仕方なく寄り添っていたくらいでもあったであろう。
麻雀で負けていれば、勝まで、そう、己が勝まで眠らさないって、言うから、皆も従っていた。
彼が勝てば、また、眠らせてくれない。{{今日は、俺には日にちが良い}}とか言って、毎晩が、毎朝までに変わっていった。
当方は、疲れ果てていたが、さあ、{{今日は眠いから早く寝よう}}なんて、考えておいたら、もう、夕刻には数人が来てまっていた。遂に、遂に、毎晩と、毎朝まで、麻雀が続いてから、どうにも、ならなかった。
ある日、ある夜中にだ、麻雀している時に、今でも忘れない。忘れない、己の人生を変える、100%変える出来事が起こった。
俺の人生の{{根っこから変わる出来事}}であった。
((これまで!!!))。

「「断片回顧録」」、小野田市立病院、己。

小野田市立病院に居た時に、開業の事を考えるようになった。
医師達とは、仲良くなった。
が・・・・、静岡県国立三島病院時代の方が、職員とは、仲良くなったと、思う。
麻雀の悪い面と、友達になった良い面も有ったと、感じる。
((開業してからも、わざわざ、遠方から、数人が団体で、遊び来てくれた、と思う。))。
で・・・・、開業の準備を開始したが、土地も無し、金も無しであった。
31歳から、考えたのでもあった。
まあ、この頃も、インターン制度は、色々と揉めていた。そのうちに、制度は無くなってしまい、研修医の時代がやって来たのでもあった。
でも、土地も無い、金も無い、一体に如何にすれば良いのか、知らないままであった。
どうしても、忘れないのは、家内の母親が、私を「「家内の里」」で開業させたかったようでもあった。
開業するのに、苦労していた時でも、あった。
そう、当時は、3000万円以上の借金をしたら、大変だと言われていた。
己の{{理想と希望}}のみを考えていたから、大変な借金となった。全部で、1億円の借金をしたと、思う。
だから、銀行さんも、己の事を、こんな「「若ぞう」」にお金を貸して大丈夫かなと、考えたようであった。
1億円の金銭である。
今に、考えても大きい金額である。
随分と、考えたが、己の「「理想」」を貫くためには、仕方が無かった。
開業竣工式披露では、医師会長が来てくれたが、これは、{{本物か、偽物}}ではないかと、呟いていた。
だから、なんであろう。当方は、開業しても、絶対に外には遊びには出なかった。
働くだけであった。
そう、小野田に居た時であるが、随分と計画をしたが、最後には、借金地獄であった。
先輩は、当方の開業を見てから、当方に言った。
時代が変わる時代でもあったから、今に開業しても、大丈夫かと言うのでった。無理もないだろうが、その二年後には、
先輩も、開業した。
その直後に、小野田市立病院は、新しく新築している。{{数年前には、また、新しく新築している。}}。
病院時代は、官舎に居たが、直ぐの傍には、小さな川が有って、小鮒を屡々と釣って喜んでいたものだった。
早いもの、時の流れはである。
{{とにかく、家内の「「古里」」でなかったし、私の開業は、家内の母親には、期待を裏切ったのかとも思う。
今は、家内の母親は居ない。心臓病で、亡くなってしまった。開業してから、暫くしてから、亡くなった。
そろそろと、己の極楽・地獄行きが、近づいて来た。そんなに、思う。}}。
仕事のみ、たまたま、麻雀は、行っていれば、留守番にもなる。だから、麻雀だけは、した。一年間であった。己が倒れた。
(これにて!!))、

「「断片回顧録」」、小野田市立病院、己。

  小野田市立病院には、同僚が行っていてから、当方に、助けを求めた来たのであった。今から、45年以上も前の事であった。
大腸癌で、手遅れの患者さんで、とにかく、「「人工肛門」」の造設をしたいから、来てくれと、「「お呼び」」がかかった。
決めた日に来て欲しいと言うのであった。当時で、たが、当方は、全身麻酔には、それなりの「「自信」」を持っていた。
まあ、決められた日に、小野田市立病院に行き、二人で手術を開始した。患者さんが高齢者だったので、局所麻酔で手術を開始した。だが、局所麻酔では、疼痛を訴えて、手術不可能となり、途中で全身麻酔をかけると、どんな事になってからは、当方が全身麻酔をかける事になった。看護師さんには、準備をさせてから、当方が全身麻酔、そう、気管内チューブを入れて開始、後は、看護師さんに命令をしながら、継続した。看護師さんは、当方の命令を受けながら、当方の指示に従ってくれた。万全の「「方法を持って」」手術も終了した。一人、先輩が居たが、全くと、手術室には、顔も出してくれなかった。何故か知らない。当日は己は、手術してから、北九州へ戻った。
何故か,知らないが、彼は毎日と出勤はしていなかった。今で言う、出勤拒否でもあろう。
その数日後に、彼の言い分を聞いてから、当病院へ転勤して行った。
当時の先輩も、良い先輩であった。彼の凄いのは、学者では無かったが、外国語が、数か国語もペラペラで有った。また、40歳前であったが、凄く女性には、持てたと思う。当時、宇部市に「「キャンバレー」」が有ったが、彼は行けば、必ず、女性に持てた。
私は、水商売の女性には、全くと、興味は無くて、でも、行けば、寂しくんなる、のでもであった。
でも、病院内では、噂が出る程に、でも、明確に我慢をした。周りの看護師さんも、私の「「噂」」を立てる程になっていたが、関係は無かった。手術場の看護師さんから惚れられたが、知らぬ顔で来た。
まあ、色々と有るが、知らぬ顔で・・・・全てを通した。
当時で、当方が、大学時代の、鶴丸高校だった女性からは、勿論、その後の彼女の足取りは知らないままで、年賀状などが来たが、当方は返さなかった。
そのうちに、己の開業へと、「「心が動く」」のいであった。
己が、31歳頃から、考え始めたのでもあった。
31歳で開業、大きな借金であった。
((この辺で!!!))。

「「断片回顧録」」、九州労災病院、己。

  時代の流れは、早い。とにかく、外科の医長だが硬式テニスが好きで、病院内にも「「一面」」が有った。昼休みとか、仕事の終了後には、まだ、外が明るいならば、屡々とコートに誘われた。でも、やっていると、面白くて、プレイする事が、当方も好きになった。
喜んで、テニスをしていた。どうしても、医長とテニスのシングルスをしても、全くと勝てなかった。当たり前であろう。
時折に、夜間に飲食に出た。記憶が有るのは、「「サザエ」」である。、サザエの尻尾が美味しい、「「特別に、尻尾の茶色」」は美味しい。緑がかった尻尾は美味しくない、二度と食べない。でも、前者は凄く美味しい。「「ユデルのが、美味い」」から、今でも記憶している。
丁度、その頃に、胃ファイバースコープが出て、でも、管は大きかった。内科医の先生に、一度だが、実験台にされたが、今でも矢張り覚えている。内科医の医師は、何度か、私に実験台になった事に、感謝だと、言っていた。
外科の手術で。また、全身麻酔で、某医師が、期間内にチューブが入らずに、私が、手洗いの終わった手を使って、麻酔の準備を手伝った事もある。
私が手伝わなかったら、どうなっていたのかとも、感じた症例であった。
この頃に、新婚旅行は「「グアム」」が流行った。インターン終了後の一人が来ていたが、新婚旅行で「「グアム」」に行ったのであった。その数年前の私の「「新婚旅行」」は、宮崎と鹿児島であった。時代の流れは、凄まじい。当方は、まだまだ、外国なんて行った事のない{{田舎者}}であった。
((このグアムの事は、後々になって、また、私にも、良い体験となる。
勿論、私は単独でグアム旅行であった。これが、また、今の英会話に繋がって行く。))。

「「断片回顧録」」、九州労災病院、己。

  当方、九州労災病院へ転勤となり、ここの生活が一番に、己の記憶に残っていると感じる。
ここでは、また、男と女の話が戻る。そう、あまり詳しくは書かないが、某男性と、女性が同時に亡くなっていた、
「「噂」」は、流れていた。仲良いと、だよ。まあ、二人の間では、何が有ったかは知らない。色々と、噂が有ったが、詳細が不明で有った。周囲の「「噂」」でも、多くは、知らないのであった。無理も無いだろう。
女性は、凄く美人だった。何時も、黒色の衣服を来ていた。両者とも既婚者であった。彼女は、凄く美人であったし、普通の方々には、死ぬる「「理由」」なんか、理解が出来ないであろう。
不思議な、二人の行動は誰にも理解できなかった。女性には、「「衝動買い」」が有ったとも記憶している。
そのような「「話・噂」」も、暫く後には、消えていた。
まあ、これは、他者の事であるし、己は、此処で、初めて、硬式テニスの「「ラケット」」を持った。外科の医長が、硬式テニスが上手で有ったし、誘われたのが、当方の「「因縁」」でもあった。この「「硬式テニス」」は、己の「「人生の3分の2」」をしめているであろう。
そう、こんな人生を己が描くとは、「「夢々」」でもある。
また、小さな出来事であったが、某脳外科医の人間と一緒に夜に飲食で出かけてから、帰りには、彼が「「タクシー代金を忘れた。金銭を貸して欲しいと「「手を出されて」」から、仕方なしに金銭を貸した。
翌日に戻してくれると思っていたが、彼は何も言わないで、最後まで、小さい金額であったが、戻してくれなかった。
この時に、初めて、酔った人間には、金貸しは止める事だと、気付いた。場合によっては、「金銭を上げる」」の気持ちなら、良かった。
{{現実には、世の中では、決して金銭の「「貸し借り」」は、しない}}事であろう。
((これまで!!!))。

病院 どさまわり、己。

  北九州の病院、特別に、小倉が多かった。
市立小倉病院では、自由だったが、あまりにも、部長から教えて貰ったものは無かった。
だが、上司には、可愛がってもらったが、全部からの、上司では無かった。極一部の上司が、親切に教えてくれた。丁度、一年も居たが、色々と病院の「「実力」」も分かった。素直に教えてくれた上司も居たが、マイペ^ースで全くと部下には、親切で無かった医師も居た。それでも、こんなものかと、思ったし立腹もしなかった。
外科の医長は、自分の思う通りで動いていうたし、部下を可愛がる方法も知らなかったようでもあった。己が、外部からの手術を頼まれて出かけていた。
丁度、1年してから、転勤命令が出てから、国立小倉病院に転勤となったし、そこでは、沢山の医師とも{{知り合い}}になってから、スキーにも行った。島根県の三辺高原や、鳥取の大山スキー場にも行った。己達の自家用車で行く方が、多かったと思う。
あまり、手術は教えて貰わなかったが、良い思い出には、なっている。
当時、少し記憶にあるのは、入院している患者さんと仲良くなって??、病院を出勤停止された医師も居た???。確かに、どちらが、先に、積極的だったかは知らない。ここで、これ以上に述べる事は、止めておこう。
まあ、スキーが一番に思い出もある。
真夜中に、自家用の車で、ひたすらに、飛ばした。山口から島根に抜ける道は、深夜に走ったが、凄く、スピードは出していた。そう、津和野を横にして走ったが、夜間だから、神社が見える筈も無かった。
当時、己は、随分と、スキーにも凝ったのである。
勿論と、私の女房の兄弟も、特別に、兄もスキーが好きであった。
演歌では、「「横浜、たそがれ」」が一番に流行していた時であった。丁度、高校の先輩が外科に勤務していたが、彼は開業する前で、後輩の面倒を見る余裕も無かったであろう。
まあ、勤務以外では、スキーが一番に記憶に残っている。
やがて、九州労災病院に転勤を命じられた。此処の病院が、また、私の人生に沢山の影響をもたらした。
((これにて!!))。

「「静岡県三島時代、己

  まあ、何と母親の「「言葉使いの上手な事」」だよね!!!。
私は、そのまま、飲み込まれていた。
娘の「「写真の映り」」が良かったかな、そのような感じであった。
当時は、写真が少しばかりは、修正されていたのかも、なんて今は、思う。
写真の技術は、知らない。
私は、母親の言葉通りに動いていたかな???。でも、よくよく考えると、違うようでもある。
私の「「インターン時代には、1日に3度のお見合い」を2回も行った。
だが、結婚しなかった。
まあ、最初の「「お見合い」」では、少しながら、緊張したが、その後は、全く緊張感は無かった。
正直に語れば、他の人達は{{どんなか知らないが}}、私が感じたのは、そうか、俺も「「犬や猫??と同じかなど」」と感じたのであった。動物の、「「雄と雌の」」の「「かけ合わせ」」だよと、見合いについては、そう、感じたのである。
私の{{考え方}}が悪いのか、とにかく、今は、素直に語ろう。
母親が、とにかく、良いと思うなんて言うから、私も{{その気持ち}}になってしまった。いや、相手方の母親の話しに乗せられたとも思うのであった。
私が、私の「「故郷」」へ帰ると、何時も会うようになっていた。相手方の「「故郷」」も近くであった。
三島から、当方の「「地」」に帰った時には、かならず会うのであった。
まあ、三島時代は、懐かしいものであった。
病院の旅行した看護師さんと薬剤師さんとは、結婚する事は無かった。私の母親の{{言われた通りにした}}のであった。
当方は、故郷へ帰ってから、そう、1年間の三島への出張であった。かなり、病院での生活には、男性職員とも。
{{職員と仲良くなってから、当方が開業してからも、職員達は遊びに来てくれた。遠方からである}}。
((これまで!!!))。

「「断片回顧録」」、静岡県三島時代、己。

 素直に書いてみよう。
当方が、国立病院の外来で働いている時だった。私の母親から、その数日前に電話があって、娘と母親が来ると連絡が有ったのである。
まあ、最初は、私の母親が、私に行った言葉は、「「親も、娘も、:良いと思う」」から、との手紙も来た。
その前に、「「写真」」を送って来ていた。私も、「「写真」」を見てから、OKしていた。
で!!、数日後には、母親と娘が、病院にまで、来ると言うから、「「イエス」」と言っていた。
だが、だが、或る日に、突然と、目の前に、{{母親が現れた}}のであった。
病院の外来に、親が私を訪ねてきた。私は、母親と娘が一緒に来ると期待していたのが、一挙に壊れたのでもある。
まあ、まあ、人生とは、である。
でー、直ぐに母親は帰った。近くの旅館に,宿泊しているので、晩には、一緒に食事をとの事であった。
私も、その言葉に誘われて、旅館には、夜に尋ねた。
色々と、沢山の「話」」をされて、当方は、話しを聞くだけでも有った。
話しが上手で、あっと言う間に、私は{{話しに飲み込まれ}}てしまった。
可能な限り早く、娘を、連れて来ると言うのでもあった。
されは、それは、話が上手で有った。夜も更けてから、私は「「お別れ」」を伝えて帰った。
一体に、己は何も話すことは:無かったし、母親が話をするだけで終わった。
母親の「「言葉」」に、すんなりと{{乗せられた様子}}であったであろう。
当時には、己の診察の時間に、外来に来られたのには、驚いた。
今の時代で、不可能で有ったであろう。
その後、2週間くらいで、また、母親と娘が訪ねて来た。
まだまだ、携帯電話も無かったし、今では、考えられない時代であった。
((これにて!!))。

「「談判回顧録」」、静岡県三島時代、己。

 まあ、己の家内の事は、また、明日に書いてみよう。
とにかく、怖い物には、寄り付かないとの、己手の「「小心」であった。
沼図が、怖い街だと、誰かが言ったので、遂に、当方は1度しか行かなかった。考えて見ると、なんでやねとも、思う。
一年間も居ながらに、一度だけである。当方は、熱海も知らない。有名な熱海であろうが、用事も無かった。
((その後は、JASRAC会員で、となって、熱海でも、かなりの回数で、集会があるが、今の現在でも集会は有る。だけど、行かない。
本来なら、行きたいとは思うが、行っていない。))。
何だか、何だと、言う間に月日は流れて行く。
まあ、沼図に行かなかったのは???、とは、思う。
良くも、時間を費やしたものと、思う。
今日は、この辺で”!!!。
((次回は、己の「「見合い」」も不思議なもんであった。))。

「「断片回顧録」」、静岡県三島、己。

少しの旅行は、書いた。また、忘れないのは、スキーであった。
当方が、26歳になってから、初めてスキーをする事になった。
ウキーをするなんて、これまでに、考えた事もなかった。
山中胡の傍に、確かに、「「人工スキー場」」があった。道具も借りたが、とにかく、全くと滑れない。
最初から、最後まで、何回も転ぶだけだが、全く滑れないままで終わった。
こんな難しいスキーを誰がするのかと、不思議だった。
まあ、初日であったし、二度とこの「「場所」」に行った記憶もない。{{唯、唯」何とも言えない苦い思い出のみである。
その後に、また、機会を見てから、医師達でスキーに行った。長野県の山奥であったが、「「白樺湖」」に行った。
朝早くの、そう、夜の便で行った。傍に、「「霧ヶ峰」」があるが、良くは知らない。行った事は無い。
でも、「「白樺湖」」」の雪は良かった。粉雪であった、本当に、雪の{{手触り}}も良かった。この日は、全く転倒しなかった。直ぐに、」スキーで滑っていても、簡単に停止できた。
夜に出て、晩までに三島まで帰った。まあ、「「クリオチャニア」」であった。
{{最近であるが、深夜便で、スキーに出てから、バス事故で沢山の人達も亡くなった話などもある。}}。
「「運の悪さ」」を、本当に感じてしまう。
スキーをするは、2回目だったが、全く、転倒もしなくて、不思議であった。本当に、我ながら、喜んだ。
まあ、これだけでも、私は、{{スキーの体験者だ}}と言えるであろう。
また、これが、後々の、小倉市立病院、小倉国立病院や九州労災病院と{{ドサ回り}}したが、国立病院時代には、医師達が、スキが好きで、私も楽しく「「スキー」」が出来た。
(これにて!!!)。

「「断片回顧録」」、静岡県三島時代、己。

  黒四ダム、上高地の旅行の後に、また、次に行った。南アルプスの麓の{{ヒナビタ温泉}}であった。
途中で、「「末延山」」???にも寄ったが、これまた、素晴らしい場所でもあった。確かに、JR駅の「「富士」」の近くである。当方は、宗教には全くと興味は無いし、今でも信心は無いが!!!。
だが、沢山の人達が{{白装束}}で、小さな太鼓を叩きながらで、登り、下りと、驚いたものでもあった。凄く懐かしい光景である。今でも、己の「「記憶」」に残っている。{{南無法蓮ゲッキョ!!!}}、であった。昔の「「法華経」」か現在の「「創価学会」」かなどか、どちらかは、知らない。
この事は、誠に、恐縮である。今もって、恐縮である。当時は、まだまだ、創価学会が、布教していた時代でもあったと思っている。
とにかく、沢山の人達、{{白装束の人達と小さな太鼓を叩いた人達の姿}}は明確に忘れない。
その後に、下山してから、南アルプスの山奥に入った。その時は、病院の車を運転するオッサンとも一緒で、他は、まだまだ、若い女性達が二人であった。勿論、己も若かった。
山奥の{{ひなびた温泉}}にまで、入ったが、本当に山奥で、当方は驚いた。夜の食事が終わってから、話をしていたが、さあ、さあと、寝る時になってから、二部屋が有ったが、枕は、男と女の枕が並んで置いてあった。
全く、その様な約束もしていなかったし、ええ、ええ、どうなるの、なんて思った。
だが、だが、面白い。何時の間にか、女性達が、枕は、女同士に変えていたのでもあった。
当時は、私も若かったし、相棒が{{高齢者}}だから、なんて思って納得した。
そんな、何とも、面白い1泊2日の{{小さな旅}}であった。
今でも、懐かしい思い出である。
((これにて!!!))。

「「断片回顧録」」、静岡県三島 己。

  でも、申し遅れた。深夜に,急性虫垂炎などあれば、深夜に看護師さんを呼び出してから、一人で手術をしていた。今考えると、良くも頑張ったと思う。
 ところで、医師と旅行をしたのは、これが最後であった。先輩は、開業していった。浜松で開業した。当方が尋ねたのは、暫らくしてからだったが、そう、私が、開業してからだったから、かなり後でもあった。既に、先輩は、肝臓癌で亡くなった後でもあった。誠に恐縮だった。
その後には、奥様が、私を訪ねてこられたが、かなり、世間も時代も流れてからであった。人間の「「命」って、早いもの、命のながれなんて、本当に、早い。
当方が、三島の時代を、まだまだ考えると、思いでは、一人の看護師さんと薬剤師さんだあった。私が、よりも、彼女達から仲良くしてもらった。
一人で出張だったし、私は、旅行にも一緒に行ったし、いやいや、色々だった。
考えると、仲良くもして貰ったが、一人の運転士だろうか。薬局の女性が、800CCのパブリカ???を持っていた。
私が、運転で遠くにまで、3人で旅行した。
((ここまで!!!。))。

断片回顧録、静岡県三島時代 己。

  富士山登頂も良かった。己の体は、まだまだ、大丈夫なんて思わないで心配で生きていた時で、でも、また、生まれ変わった様でもあった。また、体の体力に自信がついたから、凄く良かった。
また、楽しい思い出は、医師の4人と、かかりつけの患者さんで、当時だが、景気が良かったのでもあろう。
患者さんの自動車は、セドリックで{{オウトマ}}でもあった。患者さんが運転して、医師の4人は、私も含めてであった。
懐かしい思い出である。計、5人で患者さんの運転とセドリックの車で旅行だった。静岡県の三島を出てから、富士山見ながらで、反対側に出て、長野県を上がった。松本市内に泊まったが、運転士が曰く。今夜は、タクシーが夜にも関わらず、スピードを出していないと呟いた。きっと、警察が、スピード違反を検挙していると言い始めた。己の車の{{スピードも落として}}から、ゆっくりと走り始めた。旅館には、松本で泊まったが、朝の新聞を見ながら、数十人がスピード違反で捕まっていた。これには、当方も、少なからずだが、驚いたのだあった。己が、まだまだ、26歳の時だった。当時には、外科の医長も、軽自動車を持っていた時代でもあった。
翌日は、長野の善光寺にお参りをして、まだまだ、登った。途中で、戸隠と方角を別れて、志賀高原に向かった。
志賀高原の、中腹には、「「熊の湯」」旅館があって、今は、不明であるが、当時は、此処に泊まっていた。
翌日は、まだまだ、登った。セドリックにのって上がったが、頂上には、確かに、「「渋峠」」??があった。11月の4日でもあった。覚えている。「「渋峠」」から、そう、其処から北アルプスには、雪が既に積もっていた。雪を持った山々を眺めて下ってから、そう、「「万座温泉」」の湯けむりを眺めながら下った。確かに、軽井沢を横目に、また、高度の高い汽車の線路を横断をして、その場から「八つが岳」」を見ながら、確かに、韮崎へ下った。また、富士山の裏側を通りながらで、三島に帰った。
良い旅であった。その翌日には、そう、11月5日には、「「渋峠」」などには、雪が降ってから、通行止めであった。
運の良い「「旅」」であった。今日は、懐かしい旅の記憶でもあった。
(これまで!!!))。