「「回顧録」」、前へ、己。

 そう、人間って、不思議なもので、己の考えていない事が、降りかかって来る。
当方は、小児科では、ない。
だが、某保育園の「「理事長」」になってから、まだまだ、仕事が降りかかって来る。
理事長になったが、保育園は、かなり古い、新しく見えるが、歴史はかなり古い。
また、指定災害地域に立っていた。保育園には、かなりの人数もいた。
だが、此処の土地は、災害地域であって、まあ、見ている限りでは、大丈夫の様でもあったが、何せ。保育園の建物は、などなどは、土地を借りていた、即ち、借地であった。それが、災害指定区域でもあった。
社会福祉法人の事務長の苦労も、大変であったが、新しい土地を買ってから、建設する話も持ちあがって来た。
いずれにしろ、「「土地と新築建物」」には、随分と代金が必要でもあった。
当方の金銭は、無いが、先ずは、土地の購入が大事でって、土地が無いと、全く無理であり、建設用地を探してみるも、金銭の支払いが高額なら、買えない、己の金銭を「「一億二千万」」で買った、そして、寄付である。これが、社会福祉法人の{{流れ}}である。
その土地の上に、建築事務所に設計図を頼んでから、建築するのである。
そして、1年かけて、建物が完成した。未だ、己は、生きている。人間の「「命」」は何時に消えるか知らないが、である。
で、今は保育園の利用者も増えて来たし、でも、返金も必要で有る。
まあ、己の連続した生活の「「停止」」には、歯止めもかからずで、進んでいる。
丁度、その頃に、次男坊が済生会病院から、当クリニックへ戻って仕事をしているが、良く、働いてくれる。長男坊もしっかりと、老人保健施設アイユウで、しっかりと働いている。
どちらにしても、倒産だけは、させたくはない。
社会福法人も、医療法人も、倒産だけは、させたくないと、思いながらの日々が続いている。
まあ、己には、人生にて、何時の事でもあろうが、「「終止符」」が来るであろう。しの日は、不明である。
唯、消えて行き去るだけである。
それでも、満足である。
明日は???、己の歴史に「「終止符」」をうちたい。
((今日は、これにて。))。

「「回顧録」」、前に、己。

を 随分と、人生を、いや、周囲の皆さんの「「御蔭様」」で生きて来た。
また、今後の後も、己の好き放題にでも、生きて来たような気持ちもす。
毎日が、相変わらずに、人生の物語を、言うだけで来たのかなとも、思う。
医療法人では、私の買った土地が有ってから、またまた、己の「「心の虫」が動きははじめていた。
居医療法人では、私のクリニックの、直ぐの傍には、かなりの土地が有った。
そこで、考えたのが、「「サ高住」」であった。
9階だての、建物を考え始めた。そう、10億にもなる「「建築物」」である。
借金が出来るのは、当たり前である。勿論、銀行とは、かなりの回数を持って検討した。
88人が泊まり込む建築物で、「「サ高住」」と言うのであった。1階には、職員の子供さん達のために、保育所も居れて建てた。
「「9階建て」」であって、9階には、外から来られた人達が自由に遊べる。音楽や&カラオケ室も、本格的に作られていた。部屋の外側には、絶対に「「音や声」」は、漏れない部屋である。マージャンなども、外から来て、場所代金は無料で遊べる。
アイユウの施設長が、建物の構想などは、考えていた。
だが、何はともあれ、建築物の全体の「「金額」」の、問題もあった。
建物を建築する以上では、金融機関には、何年で返金するのか、出来るのかを、考察が十分に必要である。
建築には、約1年以上の歳月も必要であった。
馬鹿な俺の「「進路」」で有った。
((ここまで!!!。))。

「「回顧録」」、道、己。

  己の道を、「前に進む」」だけでも、あった。
本当に、借金をするだけでもあった。
次には、また、特養施設を制度化に沿って建てるだけでもあった。
金銭も、かかる。その金銭を何処から引き出すかでもあるが、国や県や市から出る金額は、大した金額でも無かった。
無いよりか、増しでも有ったが!!!五分の一弱であったのか、そんな気持ちでもある。
建設費用の五分の一くらい、でもあろうか!!!??、それよりも、まだまだ、低くかったかとも思う。
ゼネコンとも、話しながらで、進むが、:彼等は、仕事が欲しいから、当方は、あまりにも「「ゼネコン」」だけを信用もできなかった。
とにかく、前にすすむだけで、後には、戻れなかった。
金額の安くした「「サ高住」」なども、一緒に含めて建てるし、ショートステイも一緒に包めて建てる。
勿論、建設すれば、其処からいくばくかの「「給料」」も頂くが、全ては貰った金額は「「寄付して、返す」」だけでもあった。
それで、己が「「損」」をしたとかなどは、全く思わなかった。
「「寄付行為」」が当たり前と思っていた。その金額には、税金はかからない。社会福祉法人であったからである。
まだまだと、己の「「小さい心」」は前進を考えるのみであった。
そう、「「医療法人」」と「「社会福祉法人」」と、どちらも、崩壊してはならない。何だか夜も昼も働いた。
勿論、この間も昼夜の関係なくて、「「死体検案」」などは、電話が鳴る。
夜も昼も、携帯電話を2本持って寝る。
それで、己が「「損をした」」とか「「得をした」」とかなどは、全く考えなかった。
がむしゃらに、働くだけでもあった。
丁度、その頃、某幼稚園の「「理事長」」をお願いしたいと、某お二人が私を訪ねて来られた。
そのまま、逃げるにはゆかず、その「「お役」」を引き受けた。
これから、まだまだ、己の「「前を向いて歩く、行脚」」は続くのであった。
まあ、「「人生とは、何ぞや」」、などは、己なりに悟っていたから、出来たと思う。
((これにて!!!。))。

「「回顧録」」、続、己。

  ((この爛を借りて、己を見ている。恐縮である。真実なる「「懺悔」」からは、今は少しだけ、離れている。))。
  前回は、特養の名前は、「「ゆめタウン施設」」と名付けた。
まだまだ、己の道は、借金を抱えて進むのでもあった。そんな考え方しか、無かった。
そう、手元には、現金が溜まる筈も無い。
まだまだ、己には、何処何処で、なんて、話も出て来る。また、己の「「心」」には。ブレーキをかける気持ちも無かった。
この頃には、また、別の場所では、土地を買っていた。そう、次を考えての事だった。次に建てたいと考えても、土地が無かったら、何建設ができない。
己の給料の中から、支払いしながらで、時は流れて行く。それを、また、当然だと、思っていた。己の「「死ぬる」」などは、全く考えていなかった。
土地代金も、それなりに高価であった。だが、仕方が無かった。
数年後には、その場所で、また、特別養護老人ホームを建設するのであった。ショートステイなどを合わせると、60ベット以上でもあった。とにかく、建設費も高価であった。収入と支出のバランスが、必ず、重要であった。だから、沢山の皆様方、職員、そして、ボランティア―の皆様方の御蔭であるが、事務長は、やはりだが、苦労しているであろう。
事務長の好きな会社???、「「「ISO9001=インタアーナショナルスタンダードコミュニケーション」」だった。早くから、これに入っており、そう、最初の特別養護老人ホームが完成した時からでもあった。「「「ISO」」」の獲得は、日本全国で老人ホームでは、初めてであったし、当時は、北海道や他の地域から、当方に視察に市会議員さんや県会議員さんも、あちらこちらからであったが、尋ねて来られた。
当方は、あまり、賛成もしなかった。何年かに、一度の「「「ISOの審査」」」も有った。
これには、当方も、面接を受けたが、いや、受けなければならなかったが、色々と話?雑談もした。
最近では、何時も、「「「ISONの面接」」」では、私は不満を彼等に伝えておいたし、また、同じであろう。面接がるが故に、確かに、職場・職場での職員の面接もあるので、経営の方向性が{{捻じれる}}ような事は無かった。
何故かと、問うならば、私は「「「ISO」」」だと言っても、説明しても多く庶民は誰も理解できないからであった。確かに、事務長が大変に好きであったが、「「「ISO」」」に入っていると、経営上では、完全に{{余分なインチキ}}もできないし、社会的な不正もできない、支出&収入などもである。そんな意味では、確かに、良いと思うが、まあまあ、時には、テレビでも「「宣伝」」」だとお願いいするも、費用が高いのか、今のところ、「「「ISO」」」の宣伝は、少ない。
まあ、己の思う通りにならないのが、人生である。
((今日は、ここまで。)))。

「「回顧録」」、この道を行け、己。

 前回は、己の「「歌の世界」を書いた。
今日は、また、本来の己の道を進む。
グループホーム18人ショートステイ33人のベットであった。
その後も、己は、己の道を進むのであった。何歳まで、生きる事かな、それは、考えていなかったから、阿呆俺でもあった。
特別養護老人ホームを、40床=特養20床+ショートステイ20床。総計40床、の建設であった。
祝賀会も行ったし、己は人生を「「有るがままに、生きる???」」???だけでもあった。
財布の事も少しは考えたが、とにかく、事務長も大変であったであろう。いや、職員さんが働いてくれた「「御蔭様」」であった。
また、それだけ、毎日と己は働いた。いや、働く場所を作っただけでもあった。
それなりに、収入と支出を考える必要が有ったから、やはり、事務長が大変であったであろう。事務長は、各施設の総まとめをしていた。
また、各施設では、理事会&評議委員会まとめて、彼等がまた、総収入と総支出を見るのであった。
最初は、理事だけで良かったが、次第、厚生労働省からの支持通りに、するしか無かった。
が、この計算は、事務長以下の事務所で計算が重要でもあった。
そう、数年毎に、己は何かを建てる、建設するようになっていた。
どれだけの負債を抱えているのかは、常に、皮算用では有ったが、頭では計算をしていた。
まだまだ、己の{{阿呆な生き方}}は続いて行く。
((これまで!!!。))。

「「回顧録」」、{{歌について}}、己。

 本日は、己の「「歌」」と「「作詞」」について述べたが、少しだけ追加しておきたい。
そう、当地では、それなりの{{ピアノ弾き}}でもあったが、当方は、世の中の真実を少しだけでも、追加してみたい。
己の{{悲しい一面}}でもあった。その時、そんな時も、有ったのである。
JASRACとは、今に説明したが、それほどに入会するには、難しいものである。本当に、難しいと思う。
必ずや、入会したいならば、同じJASRAC会員の「「印鑑=捺印」」が、二人の認めが、必ずと必要である。そうでないと、絶対に入会できない。これは、何時の事、変わるか、変わらないのか、知らない。今の現在でもあるが!!。だが、当時の話である。
或る日に、或る日に、突然の「「一通の封筒」」が届いた。JASRACからでも、有った。
某ピアノ弾きの人が、「「私の御蔭」」の{{御蔭様}}でJASRACの会員になられた、との連絡で有った。
ええっと、思ったのであった。私は、丁度であるが、暫くは、彼に会っていなかった。また、{{印鑑=捺印}}もしてない。
何で、と思った。
暫く、彼とは会っていないし、電話してみようと思った。
2日後に、彼から電話が有ってから、JASRACに入会できた、嬉しいとの電話でもあった。
だが、私は、「「真実も知りたい」」し、だから、JASRAC入会は{{おめでたい}}が、でも、私の印鑑を盗んだのか、と、いや、自分で勝手に、{{私の印鑑を作って}}捺印したのかを、尋ねた。
彼からは、全くの返事も無かった。電話を、彼から私にしてきたのであった。嬉しいと、{{これ見よがし}}にでもあった。
だから、私は、彼の言い分だけを聞く事にしたが、彼は何も言わずに電話を切った。
だが、人生って、不思議な事が起こるものであった。
それ以上は、語らないでおきたい。
((これにて、!!!。))。

「「回顧録」」、60歳頃、己。

 己の「「馬鹿さ加減」」は、何時までも、続いてた。
また、その頃、まだまだが、当地では、当地の「「歌」」はあまり見当たらない。そんな気持ちで、作詞したのが、{{運のつき}}だったようである。
勿論、年老いてからの「「作詞」」で、己が歌うなんて全く、そんな気持ちも有る筈が無かった。人生って、不思議なものである。
同時に、「「人生極楽トンボ」」の作詞をした、人生とは、{{何ぞや}}なんての「作詞」だった。
もう、丁度、今から20年前の話である。
だから、当地では、作詞しても、たまたま、作曲を願った作曲家に願いしたが、吹き込む場所も無かった。彼は日本音楽著作権協会(LASRAC)の作曲家であった。
だが、作曲した「「歌」」も吹き込む場所が無かったので、当時には、博多まで、1日がかりで吹き込みに行った。
歌い手は、己でもあった。歌の歌い方も、全く知らない己であった。まあ、作曲家の奥様が、私に{{歌い込み}}を教えながらであったが、吹き込むのには、朝から行っても、宵闇まで、私の{{吹き込み時間}}が必要でもあった。
そう、当時であるが、「「テープ」」や「「CD]]なども、沢山と作った。勿論と、作曲の代金と{{吹き込みの代金。教授料金}}は支払った。
たまたま、当時は大阪有線のカラオケの機会が有名であった。
丁度、大阪有線の担当者が、{{私を尋ねて来て}}から、「「人生極楽トンボ}}が良いからと言って、当時の大阪有線のカラオケに入った。勿論、私は、その当時は無料で金銭は払わなかった。大阪有線の彼も、色々と計算をしてたようでも有った。
その頃は、丁度であるが、私の兄が「「老人保健施設=アイユウ」」でも働いていた。
色々な話が出て来て、私も著作権協会=JASRACに、入れたら良いと言う話もでた。で、作曲家と私の兄が、わざわざ、東京に出かけて、私のJASRAC入会の相談で行った、のでもあった。
随分と、苦労したようでもあった。JASRACに入るなんて、本当に難しい。
もう駄目だと、思って帰る折に、たまたま「「エレベーターの中で一緒になった人=私も兄も、ほんの少しばかり、地元で会った事が有ったが!!!その人に出会ったよう」」、で・・・1曲でも、大阪有線の「「カラオケ」に作詞の「「歌」」が入っていると、良いのだがと言う話が出た様であった。それで、事もあろうに、私の「「人生極楽トンボ」」が入っているので、OKになる話、それで、JASRACの作詞家の会員にもなれた。でも、随分と、兄達は、東京えも苦労したのでもあった。
意外と、変な{{折り合い}}でも有ったが、私の希望は、願い通りになったのでもあった。
「「歌い手=歌手」」は、JASRACとは、関係が無いのである。
JASRACは、作曲家と作詞家だけのものである。
JASRACの作曲家と作詞家が、作った「「歌」」なら、カラオケにも入るが、いや、金銭が幾ら必要かは、知らない。己は、特別な立場にある人間だと自覚するようになった。
現在は、私の「「作詞」」の歌が、総計で、「「ダム」」にも「「ジョイサンド」」にも、日本全国のカラオケは、この二つの会社が牛耳っているが、どちらの{{カラオケにも、40曲以上が入っている。勿論、私は、作曲の依頼では、かなりの金銭を支払った。
人生は、早い。かれこれ、20年にもなる。
だから、夜も昼も働いている。今もって、である。
この1年半は、「「作詞」」もしていないが、まあ、人生にも、それなりの「「過程」」があるでろう。
((今日は、ここまで!!!。))。

「「回顧録」」、60頃、己。

 社会福祉法人の建設も大変だが、医療法人の建設も、また、ショートステイのベッドを増やすと言う話が出て来た。
これにも、かなりの金額がかかるし、土地を如何に活用するかとの{{考え}}が重要でもあった。
ゼネコント話してから、色々と考えるのでもあった。
それまでは、夏祭りにも、活用してた土地である。やはり、真夏の夜でも、日差しが無ければ、良い夜でもあった。
「「ショートステイ」」と言えども、入所者の食事などを考えると、どうしても、既存の老人保健施設とジョイントが重要である。
これは、「「グループホーム」」を作った直ぐの後でもあった。借金が出来る、借金が溜まる。でも、もう、後へ下がる事も出来ない。
同じゼネコンだが、超有名な「「ゼネコン」」であった。
当方が、まだまだと、クリニックや施設での夜の{{状況、}}は己に全てが電話も入った。
もう、ポケベルから、携帯電話に変わる頃でもあった。昼夜に渡り、己には電話で連絡が有って、己には、常に、連絡を取っていた。
でも、己が担ぐ仕事であったから、疲れるなんて全くと無かった。
特別養護老人ホームや老人保健取設では、医師を各々と置いていたが、夜間は、全てが己に電話も有った。
でも、疲れる事は無かった。
夜間になれば、「「死体検案」」、「「特別養護老人ホーム」」と「「老人保健施設」」など野、異常自体には、全てが己の受け持ちでも有った。
昼間は、「「死体検案」」も「「産業医」」も、全てが、己の責任でった。それでも、「「内観法、内観学会」」には、発表やシンポジストとして毎年と出席したが、この頃、ふとした「「切っ掛け」」で、内観学会への出席を止めた。
猪突猛進で、己の過去の人生は、無茶苦茶でったかも、と思う。
外国への旅行なども、全く無かった。
此の少し後に、硬式テニスも止めた。そう、テニスをしていても、屡々と電話が有ってから、己が電話で話をする間は、他者はラケッチオを持ったままで、:テニスコートで待っていた。これは、さすがに、相手には、恐縮で、テニスを中止した。
もjう、この頃からは、仕事への「「思い」」だけであった。
勤務していたら、「「定年」」でもあった。
己の「「命」」を落とさなかったのが、「「運も良かった」」と思う。
勤務で人生を送るのか、己が自分で仕事をするのか、同じようであろうが、全く、別世界でもあった。
そう感じてる。
((これにて!!!!。))。

「「回顧録」」、60歳前後、己。

 毎日と、昼も夜も、仕事はした。
また、己が何も言わずでも、仕事が己に入って来た。
何時もの事だが、「「死体検案」」は続いた。多い時は、{{産業医}}も、7個所はしていた。
己の人生では、己が若輩の時は、随分と、周囲から騙されたりもした。
台風と高潮で、医院を元の状況に復元するのに、3億円も重要だったなんて、笑いものでもあろう。
そして、丁度、クリニックを土地の場所を変えてから、新しく新築するのだったが、これも、途中であって、台風の高潮に襲われた。
己の医院を復元するだけで、強烈な{{台風と高潮}}で被害を受けてしまって、3億円かかった。だが、お見舞金は、12万5千円だった。
当時は、高潮の災害保険金も{{あまりにも高額}}であったし、高潮保険には、入っていなかった。
泣きの涙で、あった。でも、誰に文句を言っても、どうにもならない。
己の「「心」」の、未熟さに気づいていたし、誰が悪いのでもないと感じていた。
当院のクリニックの建て替えが終わった時に、また、老人ホームの建て増しの話があった。
当院の「建て増し」に仕事に関わった建築会社には、相談したが、当時は、「「持ち点」」などと言われて、1年間の建築で「「点数」」が与えれらていた。
社会福祉法人の特別養護老人ホームだと言っても、とにかく、金銭が{{天井から降って来る訳もなかったし}}、事務長も{{心痛}}したでもあろう。
やはり、建築する以上では、収入と支出の計算が、重要である。
建設にも、色々とあってから、当方は、随分と、勉強をさせられた。
社会福祉法人の特別養護老人ホームを建てるにあたっても、随分と、色々様々な条件もある。
最終的には、ジョピントで「「特養」」を建てる事に決定したが、建築会社の決定の前日であった。
某、大手の「「ゼンコン」」から、ジョイントでは仕事をしない、自分の会社だけで、建設したいとの「「話」」であった。
当方は、建築には、「「値段」」が遇えば、どちらでも良かったが、ジョイントを申し出た建築会社には、彼等は断られたから、随分と恐縮もした。
まあ、人生には、色々な事柄もあろう。
「「ジョイント」」の{{件}}では、随分と世の中の{{辛辣さ}}、{{出来事}}}なども、大変であると確認できたのでも有った。
((今日は、これにて!!!!。))、

「「回顧録」」、55歳~60歳頃、己。

 とにかく、己が悲しいかな、「「借金」」をする事が怖くなくなった。
祝賀会披露には、お偉いさんが、沢山の方々が来て下さった。
勿論、私が金銭を沢山と使うが、一方で、事務長が苦労したであろう。そんなに、思う。
とにかく、建設すれば、必ずや、施設の維持には、また、随分と維持体制も重要である。
施設の維持には、幾らの金銭の収入が有ってから、また、職員の給料その他の金銭の支払いも、考えなければならないから、維持にも大変である。
己は、金銭をかけて作る事には、したが、今に述べたように、維持費なども深い考えが重要である。
次には、またまた、グループホーム建設の話も出て来る。
何だか周囲の考えにも、:流されて来たとも思う。建設には、土地を買って建てるのであるから、建設には、常に、ゼンコンさんであったし、それなりに、己の収入も計算をしていた。
グループホームを建ててから、当方は、また、医師として、昼も夜も相変わらず、働いていた。
それだけ、働いても、もはや、体の「「苦労」」も「「心の苦労」」も全く感じなかった。
グループホームは、「「竹中工務店」」が建設でもあった。
昼夜、:働いたが,何故か知らない、己が苦労して働いているとも、思わなかった。
まあ、,また、次に。
((今日は、これにて!!!!。))。

「「回顧録」」 50才過ぎて、己。

  随分と「「金銭」」を使った。また、次は、某市会議員さんから、某地に、特別養護両人ホームの建設の依頼を受けて、また、考えざるを得なかったのである。
私の次兄は、運悪くで60歳で亡くなった。また、3男の兄は居たが、女性の友達は多くて、あまり金銭には、乏しかった。
私の「「特養建設」には、老人保健施設を建てた{{ゼンコンさんも}}、反対で、尻ごみしていた。
私は、最初の{{老人保健室}}を作ってから、直ぐの事であったし、ゼネコンさんも、私の借金に心配していた。
だが、私の{{乗りかかった船}}だと、自己主張して、小さな山を買うために、一億円を提供した。己の金銭であった。夜も寝ないで働いた金銭であった。
そう、小さな山を買ってから、其処を{{サラ地}}にして、そのサラ地に建設したのが、最初の特別養護老人ホームであった。
なんと、「「建設費」」までの{{金銭}}は、随分と必要でもあった。
社会福祉法人の老人ホームであったが、国からの費用は{{微々たるもの}}で、建設費用の{{五分の一、」いや、まだまだ、少なかったと思う。
だが、当方は、無鉄砲で前に出て行った。
今に、振り返れば、まだまだ、面白い方法も有ったような気持ちもするが、己は、前に進む事だけを考えていた、と思う。
その後も、社会福祉法人で、あれやこれやと、建設していった。
此の建設にても、医師会員達は、あれやこれやで、当方にクレームには、{{クレーム}}を付けようとしたが、社会福祉法人は、全くと医師会には、:関係が無かった。
((今日は、:これにて。))。

「「回顧録」」、50才過ぎ 己。

 己を振り返る度に、益々と、己の、未熟さが見えて来る。
周りからは、あれこれと言われながら、己は、周囲に振り回せれていた。
時は、嫌でも、流れて行く。
ゼネコンからは、己のナイター付きのテニスコートを壊してから、{{老人保健施設}}を作るしかないとも、言われてしまい、言われるがままに、己の好きなテニスコートも壊してゆくしかなかった。
また、多大なる借金を背負ってしまうのでもあった。随分と、悩んだが、己の「「未熟さ」」には、明確には、気づいていなかった。
当時金銭で、多大の借金を抱え込んだから、でも、兄が生きていた頃から、始まった{{物語}}に終止符を打つ事は出来なかった。金銭の事も忘れてしまい、いや、忘れてはいなかったが、前に進むだけでもあった。いや、忘れる筈も無い。借金が己の{{肩に重くのしかかる}}だけでもあった。
さて、この時期からであるが、己の「「借金の旅」」が始まった。
その後には、当時には、私の兄が若くして、膵臓癌で亡くなったが、考え込んでも、己の兄が戻る筈も無かったし、己が26歳で出張した時の、遠方で有ったが、その方々も、竣工式には来て頂いてた。勿論と、それ以前には、当時の知人であったが、遠い静岡県の国三島立病院から、当方には、旅行で来られたし、アルコールも一緒に飲んだ懐かしい思いもした。当時から、「下関のお刺身」」は美味しい、美味しいと言われていた。
まして、「「老人保健施設」」の竣工式には、一人だったが、三島からも来て貰った。
勿論、この数年間も、警察からの「「死体検案」」には、出かけていた。
働く事しか、頭には無かった。
謝金を抱えてしまったが、この直ぐ後に、某所に老人ホームの「建設依頼」」が迷い込んで来た。
これは、社会福祉法人であって、医師会とは関係が無かった。
それでも、お医者さんは、{{ブツブツと}}を当方の陰で文句を言っていた。
だが、特別養護老人ホームは医師会とは、全く関係なかった。
沢山の借金を抱えた後だから、特養であったが、老人ホームの建設には、ゼネコンの人達も、反対した。
あまりにも、当方が、老人保健施設に、お金を突っ込んでいたからであった。
でも、己が、今に建設しないと、二度と己は,建設できないと言って、己は老人ホームの建設に向かうのであった。
((今日は、これまで!!!))。

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「「回顧録」」、50才頃、己。

  前回で記載したが、この頃は、案外と、政治家に「「金銭」」を、裏で内緒で渡せば、病院の建設も簡単に出来たようであった。
だが、金銭を渡す相手を間違えると、できない。
勿論、これは、ずっと、後々になって、己が知る事である。
極く一部の人間が、そうしていたと、思う。
当方は、そんな「「裏話」」は、当時では、知らなかった。
某東京都知事が、捕まったように、今では、全く不可能とも、なった。「「金、金、金」」の時代であった。
最近では、かなり、この辺りは、色々と困難でもあろう。
何が、言いたかったのかである。
この頃は、金銭を裏で、渡せば、何事もできたようである?????、今の現在に感じている。
金&仕事、金&仕事、そんな時代は、過ぎてしまったようである。
4年もお願いに行ったが、最後まで、病院建設については、「「許可は出なかった」」から、当方の行動は、何だったのか、話を持って来た最初の兄は、既に、死んでしまった、次男が「である。また、今の現在では、当時に1年余り動いてくれた3男も亡くなった。
県庁の中で、やっとの思いで、病院建設は無理だから、老人保健施設を作るように、そう、作くらないかと!!!、持ちかけられた。
唯、此の「「件」」についても、色々と俗世間の「「柵」」で長引いた。
当方が、人間の「「心の世界」」を学んでいなかったら、如何なる状況になっていたかである。
「「柵」」が沢山と有ってから、地元の医師会の「「賛成」」得るように言われて、そう言われてから、医師会長に「「承諾書」」をお願いに行ったが、随分と長い間も拒否された。医師会長の2代に渡って断られから、大変だった。
「「人間世界の柵」」を、嫌と言う程に、味わったのである。
人間世界では、「「出る杭は、打たれる」」と言うが、人間の「「心」」の貧しさ汚さが、己の身に沁みながらの生活でもあった。
己が、「「無意識」」・「「潜在意識」」・「「顕在意識」」を学んでいなかったら、己の「「心」」は、潰れたであろう。
そう、相手の人間の「「心の愚かさ」」や「「焼きもち」」が、透き通って見えるので、当方も事件には、しなかった。これでも、我慢だけは、重要でもあった。我慢するしか、無かった。私が、裁判を起こせば!!!、まだまだ、:長引くのである。
(今日は、この辺で!!!。))。

「「回顧録」」、50才前から~、己。

  思い出す。辛かった事なども、思い出す。今に振り返れば、もう少しでも、増しな{{生き方}}が、出来たのではなかったかと思う。
そう、己の兄が、或る日に突然と言って来た。私に、大きな病院を建てろ、と言うのであった。
私は考えた事も無かった。では、どうすれば良いかでも有ったが、私の兄が、市会議員をしていたから、色々と、普通の医師の知らない人間世界をも、少しは知っていた。
私は、一日だけ考えたが、まあ、己は、当時には兄を信用していたらから、兄の言う通りにと、:考えた。そう、病院を建てるには、通らないといけない道もあった。そんな事柄を兄は知っていた。
兄の思う通りにすればと、思ったし、その通りにしたが、当時は、なかかと思う通りには、進まなかった。
国の許可、県の許可などが、必要であった。
当時の国と県の考え方が、大事で、勿論と、己の考えた通りに行かなった。
当時は、県の許可を出す「「課」」も、大将は国から来ていた。
二年半もしたが、県からは許可は出ないままで、私と兄は、県まで週一~二で通っていた。病院建設の許可を貰うのに、大変で有ったし、許可をくれなかった。
最後の「「方法:」」を考えた兄は、私に言っていたが、私、兄の言葉には「「ストップ」」をかけた。これが、私の未熟な{{考え方}}でもあったし、「「己の間違い」」でもあった。
勿論、色々な事柄を最終的に解決するために、でも有った。が、その後に、私は過去を振り返ってみて、{{己の未熟さ}}を改めて知るのでった。
遂に、丸三年とかかっても、「「建設の許可」」は出なかった。
私は、兄の思いにストップをかけたままで、時代は流れ、直後には、兄は黄疸と膵臓癌を突然に発症して、そにままで手術して、動けなくなって、入院が長引いて「「帰らぬ人」」となった。
私は、直後には、何をして良いかも、全く知らずで、時=時間=季節は流れるのであった。
どうすれば良い??。
私の直ぐ上の兄と、私は、また、県に通い始めた。
最後には、建設を断られながら、仕方なく、県には、ずっと通うのでもあった。
悲しい辛い思い出、過去の記憶である。
そして、まる四年が過ぎた。
その後に、突然と言われたのであった。
もう来なくて良い,貴方達が来ても、「邪魔になるだけ、来るな」」、と言われた。県庁の中で言われた。
後後で理解する事だが、当時は、今と違うのか、知らないが、政治が大きく、大きく、絡んでいた。
まあ、直前には、政治が大きく絡んでいる事は知ったが、当方には、なす{{術}}は、無かったのであった。
丁度、当方が、県庁に出向いてから、まる、四年が経っていた。
その当時に、言われた、のでった。
貴方達が来ても、意味ないから、{{二度と来るな}}と言われた。
当方は、返す言葉も無くて、唖然としていた、数十秒であった。全く、返す言葉もなく、{{あっけに、とられていた}}のであった。
今日は、この辺で!!!。

「「回顧録」」、もろもろ、己。

 仕事嫌いでも、働いた。己の「「生い立ち」」のなせる「「業」」である。でも、途中で投げ出す事も無かった。
当方が、仕事、これも、己に与えられた人生と仕事、「「仕事が良かった」」のは、やはり、「「心理療法」」であり、「「内観」」まで入ったのが、己の一生で、随分と役立ったと思う。何事が有っても、仕事はした。
もともと、今でも「「凝り性」」は、決して良いくないとも思うし、「「心」」と「「体」」にである。だが、己の人生は、これしか無いと、信じてしまった。
今でも、後悔はしていない。人間は、「「何故に悩むか」」これが、最高に役立った。
また、医師であるが、医師&心理士として働いて来たし、当方の地域の医師からは、理解されなかった。それは、今でも、当たり前であり、周囲の医師から、非難もされたが、己の人生の行動を中止する事は無かった。
だが、子供達には、随分と迷惑をかけたとは、感じている。「「仕事業」」は、満点でも、「「親業」」は、何点であろう。0点で有ったのでもあろう。精々、今のところ、子供達が「「犯罪」」を起こさないのが、今のところ、良かったとは感じる。
随分と、変わり者で生きて来たと思う。
今でも、変わり者である。FBばかり、しているが、変な人間だと自覚している。
この頃に、老人保健施設「アイユウ」を作ったが、この時は{{大きな借金}}もした。その後も、ぞろぞろと、」仕事の事で「「借金」」の山は続いた。借金すると、益々と仕事が大事でもある。
まあ、己の人生の生き方は、未来永劫に、「「己が生きている」」間は、続くし、今でも、続いている。
現在も、「「死体検案」」、勿論と、「「産業医」」も、「「己の本業である、診察や心理療法」」も行っている。うつ病、神経症&各種の不安障害」」の方々に「「通院内観」」をしている。但し、心理療法を希望しないで、薬の希望だけの人には、薬の投与だけで治療をしている。これは、か患者さんの希望通りである。
まあ、明日から、本格的に、50歳頃を回想して見よう。
((今日は、これにて!!!。))。