「「回顧録」」、静岡県の三島国立病院時代、己。

  前回は、仕事とマージャンについてが、多かった。でも、マージャンは毎日でもあったが、必ず、夜の12時には、止めていたから、それだけは、立派でもあった。
  思い出すのは、日曜だったか????、何だか、マージャンしている時に、飛行機事故が3度も絡まったと、記憶している。面白い?、興味深いのは、飛行機事故は、案外と一度起これば、二~三度は、重なるもである。不思議だと思う。
当時は、昼間だったか、マージャンしている時に、箱根山だったと思っているが、飛行機が空中分解❓??して、空の上から人間が降って来たと、言っていた。勿論、翌日に聞いた話である。そして、千歳空港でも飛行機事故、羽田飛行場での飛行機の着陸前に、確かに海に落ちた。この時から、操縦士が「「心身症」」だったとか、そんな話が有名であったし、庶民も「「心身症」」に大いに、興味を持ったようだ。当方も、まだまだ、そんな病気については、詳細は、知らなかった。「「心」」が、絡まっている病気だとは、思ったが、それ以上は、勉強したいとは、思わなかった。今に、:考えると、己の「「心」」は馬鹿な状況であったと思う。勿論と、外科で勤務していた医師でもあった。
その後、薬局の薬剤師の女生と、看護師さんと{{口が合う}}ようになって、旅行話も出た。勿論と医師だけの旅行の話もでた。また、病院の職員の集団で富士山に登った事が、一番に記憶に残っている。
それに、高齢者で入院していた患者さんが、若い看護師さんと仲が良くなったのか、夜になると、患者さんの部屋に、何時も若い看護師さんが、入院室に入っていた、勿論、個室でもあった。噂は、少しながら大きかった。
勿論、「可能な物語」に付いては、次回に述べよう。
(《今日は、これまで。))。

「「回顧録」」、出張の1年間、己。

  時間の流れは、早いものである。医局に入り、3か月で、静岡県の国立三島病院に行かされた。行ったと言うよりも、行かされた(《今は、随分とい以前に、三島病院も沼津国立病院に合併されていえる))
訳も分からなく、命令で行かされたのであった。昭和40年の夏の前でもあった。独り住まいは、大学時代にも慣れていたし、ホームシックなどには、全くと、感じなかった。熱海も直ぐの傍でもあったが、一度しか行った事も無かった。病院生活では、官舎も病院の敷地内に有った。医局も、直ぐの傍であった。仕事は、普通の通りに行った積りであった。その頃は、虫垂炎なども多くて、深夜には急性の腹痛や熱発で、来院しており、真夜中に看護師さんを一人だけ起こして、準備をさせて、深夜に腰部から腰椎穿刺にて麻酔をかけて、一人で手術をしていた。最近では、急性虫垂炎も見なくなったが、これも、食事の関係であろうか。深夜に一人で手術をしても、疲れるとか、悲しいとか、全く感じなくて、手術をするのが、嬉しかった。
外科の医師と整形外科の医師と私が、3人で外来を見ていた。内科医も、九州大から、来ていた。
まあ、沼津の街も怖い街だと聞かせれたし、沼津の街も一年に一度だけ居行ったが、怖いので行かなかった。最終的には、夕方から医師の仕事が終わると、医局に皆が集まってから、マージャンばかりでもあった。毎日、毎日、マージャンに明け暮れたものだ。でも、きっぱりと、深夜の12時には、マージャンを止めていたから、規律は、良かったと感じる。最初の半年間は、毎日、毎日と負けた。その時の金銭を払ったような気持ちもするが、今は、明確でない。とにかく、半年は毎日と負けていた。当方、マージャンについては、インターン時代に覚えたが、マージャンに入りびたりでも無かった。だから、三島に、行った当時は、己が負けてばかりでもあった。面白い私でも有ったが、残りの後半のマージャンでは、毎日が勝つばかりでもあった。
金銭は、最後には、バッチりと計算をしたが、丁度、プラス=マイナス、0でもあった。
当時は、己の体は、もう、くたびれ果てて、体の自信は、全く無かったのであるが・・・・・。どうしても、中学2年生の「「肋膜炎」」が、まだまだ、私を、何となく、陰で引っぱッていた。体そのものには、全く自身のない己でも有った。
毎日、毎日だが、マージャンさえしとけば、歳月が過ぎて行くのだった。
{{次回では、その他の出来事を記載してみよう。}}。

「「回顧録」」、大学6年~医局へ、己。

 インターン制度では、やはり、この時は、沢山と勉強した気持ちも無かった。
とにかく、大学6年生の勉強は、やはり、普段から勉強する事も無かった。相変わらず、試験勉強には、一夜づけの徹夜勉強で疲れるのでもあった。まあ、ここらあたりで、外科医になる気持ちは、自分で決定していた。
 インターン制度も早いもので、案外にこの時代に、アルコールを夜間に飲みに出た事も少なかった。何かの病院の行事で、夜間にまで、集会が有った。その後に、夜の街には、クラブ?、のようなお店にも先輩から誘われて行った。だが、後で、お金の徴収が有った。それには、6人のインターン修行者も、がっかりとした事がある。何で、また、お金を徴収などなどでもあった。
某医局の先生の、また、何かの祝賀会で広島にまで、車で行ったし、旅館にも泊まった。
此の時には、大変なお世話になった先生であるが、当方はインターンも終わってから、医局にも入っていた。
その時には、凄く愛嬌の良い先生で立派だった先生がいた。だが、開業後に、その後には、開業されたのであったが、驚くほどに早くて、「「認知症」」になられた。開業を止めて何処やらの遠い田舎に行かれたらしかった。が、その後に、亡くなられたようであった。当方は、まだまだ若い時で、信じられなかった。
当方が、某大学の医局に入った。
3か月間の後には、出張で静岡県の三島まで行った。
ここでは、素晴らしい出会いも有ったし、良い体験もできた、幸せな一年間でもあった。
今に、考えてみても、人間は何時の事、「「認知症」」になるのかと、感じたが、世間では、「「認知症」」が騒がれる前の時代でも有った。
((明日に、しよう!!!!。))。

「「回顧録」」、大学6年生~インターン制度、己。

 前回では、記載が、己の過去が主体で書いた。そう、インターン制度も少しながら書いた。
 大学6年生では、もう、己が将来では、何科を選ぶか、選考するのか、少しながら考えるようにもなった。
当方は、まあ、医学の授業や己を考慮して、少しながら考えたが、最終的には、外科を選ぶ事になった。
眼科や耳鼻科、皮膚科なども有ったが、内科医よりも、外科の方に「「心が動いた」」のだった。
これは、最終的には、選考するのは、インターン時代でも良かったが、そのまま外科医になった。
とは、いえ、絶対に開業するとは、思いもしなかったが、人生って、不思議なものである。まあ、:それまでの医師になってからの生活も、続いた。
場合によっては、大学時代に某病院でインターン生活をしていたら、またまた、全くと、沢山と己の人生は変化していた筈でった。
人間の一生では、必ずと誰にでも、人生の「「分岐点」」があるであろう。
当方も、ほんの少しの事で、当方の一生が変わっていたのでも、有った。
これは、学生時代の最後に間借りしていた、家の叔母さんの「「少しの配慮」」で、天と地の差ほど、当方の生活が変化していた筈であった。
でも、決して、己は、それに対しての「「後悔」」は、全くと無いし、「「恨み」」も無い。これは、今になっても後悔する事も無かったし、無い。
((今は、これだけ!!!。))。

「「回顧録」」、大学5年-6年生、己。

 前回jは、己の過去のみで終わった。
 再度、現実と未来を見てみよう。
大学年生も、あっと、言う間に終わってから、6年生である。
この頃は、何処でインターン制度に沿って、インタ-ンをするかでもあった。
随分と考えたが、当方は、東京の❓??病院でインターンをする事を、頭に入れていた。英語もペラペラになってから、外国に行って勉強をしたいとも、考えていた。
丁度、東大の全学連の闘争が始まった、時でもあった。色々と、話題が出て来ては、消えて行くのであった。インターン制度を{{くじ引きで、決める、何処でインターン実習をするか}}などの話も、出ていた。くじ引きでは、あてにもできず、少しながtら考えていた。兄が故郷の病院に話をするから帰って来るようにとの、:話も出て来た。
元々、自立性も自主性も少ない私、だった。希望していた、病院からの便りは無くて、仕方なく故郷に帰った。
そして、故郷の病院でインターン生活をしていたが、そのまま、インターン制度の後に,,某大学の医局に入った。暫く後であったが、第1回目の医学部生の同窓会が有って、鹿児島に行った。最後の下宿にも寄った。その時に、某病院から封筒が届いたが、当方が帰った後だったから、そのままにしておいた、連絡もしなかったと、聞いた。少しながら、何でかな、とも思った。
案外と、諦めの良かった当方でも有った。
だが、当方の完全なる人生の進路の「「別れ目」」だった。それは確実に言える事で、間違いないであろう。
だが、意外と、私の「「心」」を引きずる事は無かった。
とにかく、インターン時代の思い出は、看護婦さんと仲良くなったら、駄目だと、院長から、言われた事、副院長が、何時も他の医師の悪口を言っていた事、女子高校の1年生の研修で「「英彦山に行ったが、日射病(《今なら、熱射病))で病人が出た事、私には、なす{{術}}は無かった。救急車を読んで近医の病院に運んで、点滴など受けて軽快した事であった。その後は、当方は、高校の先生方から。冷たい{{眼差しを浴びた}}事は、今でも忘れない。二回目の英彦山の登山訓練が終わるまで、悲しい思いであった。今の現在も、決して忘れない。
((少しながら、飛び過ぎてんでインータン時代にもなった。今回は、恐縮である。))。

「「回顧録」」、大学5~6年、己。

 少しながら、書いたが、書き忘れた事があった。
当方が入学して、直ぐだった。無免許運転であった。昭和33年の夏休みだった。丁度、自宅には乗用車が無くて、兄が何処からか自動車を借りて来た。勿論と新車である筈も、無かった。長崎に、自動車で行った。直ぐ上の兄と母と私の3人であった。大学に入学した直後だった。
長崎に行ったが、帰りの自動車の運転を少しだけ、私に運転したらと、言われて、無免許運転をした。少しの事であったが、本当に1秒、いや、0,1秒❓?位の時間の差で電車と衝突寸前だった。あの時に、正面衝突していれば、もう、当方は、昔に死んでいた。直ぐに、兄が運転を代わろうと、言ってくれたのを記憶している。
また、当方がその後に、運転免許を取るのには、当方は、自動車学校に行かずに、運転免許の試験を受けた。大変に難しいコースであった。自動車の免許の筆記試験では、兄が、トラックの免許を取るのに、自動車学校に行ったから、筆記試験は問題集だけ、しっかりと、暗記していた。筆記試験では、時間があまり、する事も無くなって、早く答案を出して教室から出た。他者が何をしているのかも、考えずに、己は早く教室からでていた。
運転実習では、大変に{{難しいコース}}であったし、一度は、このコースを{{練習でも走らない}}と、100%の事、絶対に通らないと感じたコースでもあった。
脚の速かった兄は、また、落ちてしまい、3回目で自動車の免許を獲得したのであった。
また、面白いのは、私が自動車の免許を取ると、直ぐに、伯父が自分で自動車の借り賃とガソリン代金は払うと言って、高齢者ばかりを、4人乗せてから、別府や九重連山や阿蘇を見て、熊本周りで、自宅に帰って来た。日豊本線で朝の2時頃に出たし、阿蘇や、そして、熊本周りで、夕方の8時頃には、自宅に帰った。
振り返ると、免許の取り立てで、高齢者を4人も乗せて、よくも走ったものだと感じる。最後まで、一人が運転したのであった。
今、考えてみても、己の「「腕前」」は、良かったと、思う
私の過去を振り返り、「死んでいたかも知れない己、運転免許は一度でパス、高齢者の4人を乗せて免許を取り立てで、よくも一人で運転したものだと、感じる。
((今は、これにて、書き忘れた過去を書いたのみである!!!。己の過去の分岐点でもあった。))。

「「回顧録」」、大学4~5年、己。

 医学部では、随分と昔から、大学では6年間の勉強である。
卒業に近づくと、「「国家試験」」も近づく。勿論と、昔は、卒業1年の後に、国家試験であった。
まだまだ、国家試験事などは、全く考えもしないで、決定するべきものも有った。そう、己が将来的には、何科を選ぶのかである。外科とか、内科とか、眼科や、耳鼻科、皮膚科、産婦人科、整形外科、精神科、その他に、病理の医師や、法医学の医師なども有った。その他にも有ったであろう。
だが、全く将来的に、己が何科に進むかは、考えていなかった。
少しながら、己の良い部分を見せたいとは、思っていた。親には、月謝や衣食住などは、任せきりで、全くと親に「「感謝」」も「「有り難さ」」も感じる事は無かった。
己が、大学5年生の頃に、何を考えていたかは、とにかく、「「有り難さ」」を感じた事は無かった。落第しないようにと、まあまあで、勉強は、一夜一夜と、眠らずに勉強した。徹夜である。日頃に、勉強していないので、仕方が無かった。何だか、落第だけは、したくなかった。
その前に、大学の自動車部クラブに入っていたが、それなりの学生であった学生が、自動車部の自動車で交通事故を起こして、落第してしまった。多分に、今に考えると、「「うつ病」」になってしまったと、思う。忘れられないのは、己が深夜に、クラブの自動車を、何とか借り出して、彼女を乗せて深夜に、街の中を走った事が一度だけある。自動車には、クラブの名前も書いてあった。それでも、その自動車を借り出して、夜の遅くに走っていたら、無理もない、警察に自動車を止められて色々と質問された。自動車の免許証も提出を求められて、色々と質問をされた。一人は、執拗に質問をして来たが、もう一人の警察官は、もう、質問も良いから終わりにしようと、言う話であった。それから、己が、大学の自動車を夜間に借り出す事が、悪いと、気づいて、同じ事は繰り返す事も無かった。その時は、最初から、己が、悪い事をしていると、感じながらの事でもあったから、二度と行う事は無かった。まあ、学校の勉強は、何とかしながらで、新級して、6年生になるのであった。
6年生になると、今度は、インターンを何処でと、卒業する事と、インターンを何処でするかなども、考えるのいであった。
大きな「「別れ目」」となるにでも、あった。本当に、今になって、考えても、大きな己の一生の進路の「「別れ目」」だった。東大紛争も始まってから、私の人生は、俗世間で流されてしまった。
((この辺で!!!!。))。

「「回顧録」」、大学3年~4年、己。

 一体に、この頃は何をしていたのであろうか。考えてみよう。
確かに、この直前には、案外と沢山の友も、何らかのアルバイトしていたようであった。私も、アルバイトをしなくてはと思って、友達に尋ねて、家庭教師をした。だが、中学2年生だった。アルバイトで、家庭教師で家庭に行った。でも、家族は、隣の部屋で大きなテレビの音を出してから、テレビを見ていたようであった。私が、子供に勉強を教える時にであった。悲しい思いをしながらの、数カ月間だった。仕方なく、家族に子供の勉強時には、テレビの音を小さくして欲しいと頼んだが、その後も全くで、テレビの音は大きかった。悲しくなって、仕方なく、家庭教師も辞める事を伝えて終わtりにした。でも、最後の月の家庭教師のアルバイト代金は貰えなかった。残りの学生時代には、全くとアルバイトをしなかった。まあ、余分な金銭は、ダンス以外は、あまり金銭を使わなかったと、思う。港に大きな船、外国の軍艦が入れば、英語会話の練習と考えて港にまで、行ってから、降りて来た外国人とブロークンのイングリッシュで、片言混じりで会話をしていた。でも、全くと進歩しなかったと、思う。
やがて、専門過程での授業では、内科や外科や、その他の授業を習うのであった。授業の中で、診断名を当てて下さいと言われれば、一生懸命に考えてから、診断名を当てるのでもあった。
もう、ドイツ語から英語に変わる時代でも有った。この頃は、己が図書室に出入りしては、英語で医学書を見ていた。そして、学校では、授業では一番の前の席に座ってから、授業を受けていた。それには、私の{{良い所」」を見せたい、だけの欲望でもあった。
勿論と親から余分な金銭を、送ってもらった事は無い。また、自分では、たまたまと、その頃、休みで自宅に帰った時に、ソニ-のラジをも買って貰っていた。その頃は、沖縄に、米国の本土から英語ニュースが送られていた。短波放送に合わせて、一生懸命に毎日を聞いていた。確かに、その頃、超有名であった「「ゲリークーパー」」が胃癌で亡くなったのを知った。超有名な男優だった。が、今でも記憶に、残っている。超有名な男優には、ジョンウェインも居たが!!!。リオブラボーは、高齢者は今も覚えているであろう。「「皆殺しのテーマー」」で有名でもであった。
((今日は、この辺で!!!。))。

「「回顧録」」、大学3年生後半、己。

  「「置き屋」」と寄生虫と、甑島については、前回で触れた。
  当時は、学校で授業を受けていても、何となく先生方の講義にて、私の耳が悪いのか、聞き取りにくくなってしまっていて、自分でも少しながら悩んだ。そのような日々が、少しながら続いたが、我慢をした生活であった。他には、何も自分の症状は無くて、悲しい思いもしたが、自分で何をして治すかなんて、考えもしなかった。
唯、唯、中学2年生で、ストレプトマイシンの注射を、10本だけだが、湿性肋膜炎でしてもらった。そのストレプトマイシンが、難聴に関係が有ると思って、悩んだりもした。 
今の年老いた現在では、難聴も無い。勿論と、大学を卒業する頃には、既に、難聴は無くて改善していた。
己の悪い癖は治らずに、日頃は全く勉強もしないで、他の事柄で時間を過ごしていた。試験が来ると、悪い癖であって、数日間は勉強で{{徹夜であって}}、眠る時間も無かった。疲労困憊の数日間であった。この悪い癖は、卒業するまで治らなかった。
彼女が一人いたが、一度だけ、所謂、キャバレーに行った。彼女のお父さんが勤めていたから行きたいらしいかった。その彼女とは、何故か、直ぐに別れた。他のキャバレーらしき店に一度だけ、友達と行ったが、其処のお店では、医学部の先輩が、ピアノを。弾いていた。何で、医学部の学生が、なんて思ったが、彼は、遂に、医学部を卒業しないままであったよう。何でとは、思ったが、まあ、後悔しなければとも、後々に思うのでもあった。
((今日は、当方の難聴と、医学部の学生がピアノを弾き、大学を卒業しなかたと思うが、また、学校の試験では、徹夜をしており、疲労困憊の自分をおもぴ出す。親への「「感謝と報恩」」は、全く無いままであった。今日は、こまで!!!。))。

「「回顧録」」、大学3年、己。

  医学部では、最初の2年間は「「進学過程」であり、その後は「「専門課程」」でる。既に、3年背生については、少しながら触れてはいる。
己の蟯虫を顕微鏡で見つけたのは、大学3年生の「「組織学」」の授業であった。
  かなりの印象に残っている言葉は、こうである。先輩から、{{お前たちは、可哀想だよ}}、{{置き屋も無くなってから、遊ぶ場所もないだろう}}って、言われた。丁度、「「置き屋」」が表の上では、完全に無くなった時でもあった。現実に、眼前で、先輩から言われた「「言葉」」を記憶していいる。私達は、数人いたが、誰も反論しなかった。当方も、何となく、胸に突き刺さった言葉でも有ったが、言い返す言葉も無かった。
丁度、その後には、学生時代の「「寄生虫学」」の実習でもあったが、フイラリア寄生虫の検診で、かなり遠隔地の島でも有ったが、鹿児島県の甑島に行った。
  鹿児島県の串木野から船で出て、かなりの時間がかかった。その後には、:この島に行った事もなくて己の記憶では良い体験でもあった。
新鮮な魚も食べたし美味しかった。楽しい寄生虫検査の実施の研修の旅であったような記憶もある。
その後には、夜のダンスホール通いも、本当に時折であった。或る日、夜の遅くに帰ると、裏木戸の鍵も閉まっており、叔母さんを起こには、気が引けて困った。下宿の{{叔母さん起こすのが、本当に気が引けて}}、困ったし、暫くは、ぼんやりと、立たずんでいた。中に入れなかった。本当に、当時は、二階の部屋を間借りだけしており、食事は自分で作っていたが、美味しい食事は全く作れなかった。部屋の中には入れない、叔母さんを起こすのも気が引けた。馬鹿な俺であった。また、ホテルに泊まった事も無くて、まだまだ、人間社会が如何なるものであったかは、全く知らなかった。ホテルに泊まるなんて、全く考えなかったのでもある。いや、知らなかった。随分と考え込んだが、ふと、気づいた。家の周りには少しながら、ブロックで摘まれた塀が有った、その塀から上がって自分の部屋に入り込んだ。丁度、部屋の窓ガラスには、鍵もかけては、いなかった。このような事柄は、二度と無かった。
警察が、見張りをしていたら、捕まっていたでもあろう。
振り返ってみると、世間も知らない「「馬鹿で幼稚な一人の学生が、居た」」のでもあった。
((今日は、ここまで!!!!。))。

「「回顧録」」、大学2年後半~3年生、己。

  毎日が、無邪気に過ごしていたとも「思う。親の「「教え❓命令?」」には、従っていたようにも思う。皆とは???同じような金銭の使い方はしなかった。
  飲酒も、喫煙も、マージャンを含めて博打なども、した記憶は無く、親の「「伝言」」は守り、毎日を過ごしていた。何となく、大学を卒業して医師になれば、故郷に帰らないといけないのかとも、常々に感じていた。
大学3年生の授業では、解剖学・その他の授業を受けたが、思いでは、寄生虫の卵を己が自分で見つけて驚いたのでもあった。その頃は、何となく{{肩こり}}も強く、{{めまい}}もして{{息切れ}}もあった。何でかなと思ったが、診断できる筈も無かった。何となく、授業の時に顕微鏡で見る事業が有ったので、己の便を少しだけ取って、自分で顕微鏡を覗いてみた。驚いた事に、嬉しかったのであったが、自分で顕微鏡で{{己の便}}を見たが、間違いなく、己の便の中には、「「蟯虫の卵」」を見つけたのでも有った。全くと、驚いたが、嬉しかった。当時は、蟯虫の駆除には、オウミンが有ったので、自分で買って駆除した。思い出すのは、己の三っつ上の兄が虫垂炎で手術、入院した時に蟯虫が沢山と見つかった話を聞いていた。そう、己の小学の3年前後に親について行き、畑の仕事を手伝っていた、いや、遊んでいたのかも知れない。「「コエタゴ=人間の便入れ」」も使っていたし、間違いなく、当時の感染症が顕在化していたのでもあった。兄の話が、少しだけ私の頭に残っていたのが、これほどに役立つとは、であった。兄の話が無かったら、どうであったであろう。
薬を自分で手に入れて、飲んだが、体の症状は全て回復して、清清しい気分になった。
まあ、体は生まれ変わった。実は、もう一つ有るが、明日にしよう。
最近では、寄生虫は「「見ない」」とも言う。
((今日は、ここまで!!!!。))。

「「回顧録」」、大学2年生の後半、己。

  昨日は、私の傍から「「美人が去って行った」」と書いた。でも、納得するのであった。己には、お金を稼ぐ状況は、金銭を稼ぐ状況になっていなかったから、仕方はなかった。当然でもあろう。
  さて、「「英会話」」に「のめり込んでみたが、また、1週間に5回も、英語で話をしてくれる協会を探して、通っていた。大学4年生では、40人のグループの中で、「「ESS=イングリッシュ・スピーキング・ササイアティー」」を、作り上げた。だが、私が振り返ってみても、阿呆な人間だと、今更に、感じる。外国に住んだ事もないし、:私の「「思い」」は、馬鹿な人間だったと、思うだけである。英語も、まだまだ、決して上手には、せなかったのであった。
時折に、夜間にダンスに出かけたが、下宿も少しばかり、変わっていた。
自炊して、{{美味しい食事は。全く、朝は食べなかった}}と思う。学校の食堂で食べるのが、楽しみで美味しかった。無理もない。自分では、全くと己が満足して下宿で食べた訳でも無かった。
解剖学では、ホリマリン液に浸かっている人を抱えて取り出して、一体を、6人で、解剖していた。全ての体の場所を記憶しないと駄目であった。学校から帰る時には、下宿で勉強するのに、骨などは、寝る時には、頭元に置いてから、眠りにつくまでを、一生懸命に覚えるのであった。一番に、忘れないのは、人の頭蓋骨枕元に置いてたが、怖いなどとは、全く思った事は無かった。また、天文館通りにて、電車から途中下車して、天文館通りを{{うろつくのが、楽しみ}}で有った。酒も、ラーメンも食べる訳でもなかった。デートしながら、歩いた訳でも無かった。悲しい思い出でも有ったが、解剖中には、皆が一生懸命に勉強もしていた。私は、隣の席で、違った場所でもあったが、話をしていた。ほんの少しでもあった。話の会話中に、突然に「「怒りの感情」」を顕にして、怒りだしてメスを持って、私を,追いかけて来た。部屋から飛び出して逃げるしか,無かった。追いかけて来た人間は、覚えているのであろうか???。この人が、短気であるのは、誰もが知っていた。
こんな記憶は、今でも、私には、明確に記憶に残っているのである。小学の高学年で私を{{虐めた生徒}}は、高齢になって私に謝罪してくれた。だが、大学の友達???は、全くと謝罪は無い。また、「「謝罪」」が、欲しいとは、私は思わないが!!!!。
人間世界には、色々と他者との{{心の絡まり}}が有るものでもある。
唯一つの「「忘れない思い出」」は、街中の英会話のグループで、鹿児島の優秀と言わていた「「鶴丸女子高校」」の生徒と仲良くなって、凄く嬉しかった。何時までも、忘れない「「思い出」」であった。或る日、雨の降る日には、相合傘で、二人が一つの傘に入ってから、甲突川沿いに通りを歩いた。これは、今でも、私の記憶に明確に、残っている。
でも、私から、彼女を置いて去って行った。悲しい寂しい思い出もあったが、優秀な女子高校であり、私が彼女を何時までも、誘い続けると、きっと、勉強する時間が少なくなるだろうと、大学にも行かないって、言いだしたら困ると、私が考えたし、そんなに思ってたし、沢山と、案じたのでもあった。
今日は、また、また、次にである。
((私が、大学を卒業してから、結婚しても、彼女から年賀状などは、来ていた。どうして、私の住所が分かるのかも、私は知らないままであった。また、彼女のその後の生活も尋ねないままであった。それが、良かったとも思う。))。

「「大学2年生、後半、己。

  前回にも、大学2年生については、少し触れたが、後半の事柄について眺めよう。
大学2年生の後半になってから、どうしても、女性とは仲良くなれないままであったが、己は毎日の如く、夜になると、社交ダンスが好きになってから、毎晩の如く夜には出かけた。当方にとっては、社交ダンスが最良に楽しかった。しかも、毎晩と己が一人で出かけた。それも、社交ダンスに行くには、毎晩であったが、「「美人を見つけて口説く」」、のが目的になっていた。但し、己の金銭ついては、しっかりと計算していた。お酒も飲まない、マージャンもしない、パチンコ、なども、全く「「賭け事」」は、しなかった。親に「「釘」」を指されていた。絶対に行ったら駄目だと、言われていた。だから、お友達とも、お酒を飲んで騒ぐ事も無かった。今に振り返ってみると、何処にも旅行に行った事は無い。旅行に行っても、宿泊には金銭が必要と思ったし、大学の休みには、自宅に戻って仕事を手伝っている毎日でもあった。
大学では、毎晩の如く、社交ダンスに夜は出かけた。また、女性を見つけるのに、随分と勉強にもなった。1日の夜に、3度もダンスホールを変わった場合もあった。「「美人」」がいないと思うと、次のダンスホールに行くのであった。
一晩に3個所もダンスホールを変わっても、「「美人」」が居ないと、さすがに悲しくなってから、下宿に戻るのでもあった。
今日は、俺の思う女性は居なかった。そんなに感じて、悲しい思いで、帰るのでもあった。
そう、社交ダンスで、私の好みの女性を見つけて、仲良くなった。大学では、社交ダンスの会が屡々と有った。彼女を連れて行くのが、私の自慢でもあった。水産学部の彼も、素敵な「「美人」」を見つけたねと、言ってくれるし嬉しかった。
或る日、暫くしてからだった。彼女は「「詳しい話」」しないで、突然に、消えて行った。私が、学生であり、卒業にまでは、暫らくの年数が必要でもあった。給料も無い「「「身分だから」」と、仕方が無かった。
少しながら、寂しくて彼女の家の前を歩いたのでも、あった。一度だけでも、あった。彼女の家を知りたかったのでもあった。勿論、彼女は居る筈も無かった。色々な女性とも出会いながらで、年月は流れて、その後に、ダンスホールでは、ツイストなども流行して来たし、下級生たちが、沢山とダンスホールに来るようになった。何となく、上級性が何時までも、ダンスをする事、ダンスホールに通う事に躊躇するようになって、ダンスを止めた。
次に、一人の生活であったが、英会話に興味を持し始めてから、また、「「英会話」」に集中した。外国からの大型船が「入れば、港まで行き、「「訳の分からない英語を話していた」」のでもあった((今の現在に、その事が、役立つとは、思いもしなかったが、現在は、日常会話には、苦労を感じない))。外国に住んだ事はないし、「「外国語会話」」は、その国に住めば簡単に覚えると信じている今である。
次回は、また、続きを書きたい。親には、全く私の生活を話した記憶もない。
((此処で、今日は終わる。))。

「「回顧録」」、大学2年生の後半、己。

  大学2年生の2学期までは、少なからず、述べたと思う。
そう、社交ダンスには、夢中になった。また、御蔭で、音楽も好きになった。親からの貰った金銭は大事に使っていたし、自分で少しの金銭を溜めてはいた。社交ダンスを習った直後に、同じ県人で鹿児島の{{水産学部}}に来ていた人間と仲良くなってから、毎日と一緒に社交ダンスにも行った。そして、可愛いと思う「「美人を見つける」」ためにであった。
ある日に、相棒が少しながら小料亭に行こうと言いだしたので、私は行った事もなくて、「「何となく、賛成の返事」」をしていた。私は行った事もない「「小さな小料理屋」」に連れて,行かれて、彼と一緒の部屋で座って待っていた。料理が出て来た時には、彼は{{仲居さん}}を抱っこしてキスをしていた。私は、エスコトートした事もないし、キスなどは全くと未知の世界でった。
少しながら、いや、沢山と悲しみも感じたが、それ以上に、彼の会話や行動を「「感謝しながら、如何にすれば、女生を我が道に連れて来れる」」かを、学ばせて貰った積りで感謝した。本当に、{{焼きもち}}よりも、「「感謝」」の方が多かった。
社交ダンスも流行していたし、夜になると、毎日の如くに夜遊びなのか、何とも言えないが、社交ダンスには彼と夜中には出た。
彼の方が、女性を口説くのは、得意でも有った。
彼ばかりが、得意であって、私の「「出る幕」」は無かった。
次第に、「「私の心」」は変化していった。
そう、彼と一緒にダンスホールに行くと、必ずと、彼に負ける。踊りは、私よりも少し上手で、口も上手な彼とは、絶対に一緒に出たら駄目だと思うようになったのであった。
((今日は、ここまで!!!!。))。

大学2年生、己。

 1年生も、終わった。世の中の事柄は、全く知らないままだった。
2年生になっても、全く、当方は、ぼんやりとしたままで、時は流れるのであった。
寮生活から、一人の下宿住まいになったりもしたが、相変わらず{{ぼんやりとした}}毎日であった。
 やがて2年生にもなって、気づくと、同級生は、ダンスホールに行って、好きな彼女も、できたようであった。そして、同棲生活もしていた。
彼等とは、あまり{{おつきあい}}もなかったが、いや、全く、「「付き合い」」は無かった。
だが、噂を聞くだけでも、当方は悲しい思い、我が心は悩みに暮れる毎日であった。医学部に入ると、必ずや、女性には沢山と{{お友達}}になれると、聞いていた己であった。それを、信じていた己でもあったが、現実は、全くと違っていた。
無理もないだろう。当方は、女性と{{如何に付き合うのか}}、全く、知らなかった。「「エスコート」」ができないのである。暫くは、悲しい日々が流れるのであった。
 悲しいあまりに、己の人生は、思春期の「「真っただ中」」であったし、夜も眠らず考える日々もあった。
で、思い切って、大学2年生の秋であった。「「追加試験」」を受ける事もなくて、多くの学科の「試験」」も終わっていた。
これだけは、良く思い出す。
今でも、当方の成長のために、第一の「「大事な人生学習」」でもあった。大学2年生年の「「秋には、少しながらの勉強の余裕も有って、社交ダンスを習いに行くのを、突然に決心するのであった。
このダンスが、私の人生には、最高の「「助け」」になったと今でも思うし、信じている。
{{万一、今の現在でも、考えると、当方が社交ダンスを習っていなければ、{{大きな犯罪}}を起こしていたであろうと、考えている。1か月間、社交ダンスには、60回通った。そう、昼と夜の部で、60回になる。そして、印象的な会話であるが、1か月間も習いに来てから、女性の友達が出来なかったのは、貴方が最初で最後の人間であろうと言われた。ダンスホールのお姉さんに言われたが、本当の出来事でもあった。少しながら、悔しい思いをしながら笑いながら、返事を返すしかなかったのであった。}}。
(《今日は、これまで!!!。))。