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「「回顧録」」、小学3年、 5回。

  小学2年生の「「回顧」」を、もう少しだけしとくよ。
唐戸から、トラックに乗せられて、長府に帰った。我が家が{{丁度、燃えていた}}のであった。
親達が、何処に居るのかも全く知らないで、小6の兄と小学2年の私が途方にくれながら、我が家が燃えているのを見ていた。
多分に幼い二人は、想像しながら、お宮の方に逃げているだろうと考えて、大きく遠回りをしてお宮の方に行った。
親と出会えたが、荷物が持ち出したい物も、まだ、有ったが、当時は進駐軍がいて、戦争が終わった翌年だから、家から持ち出したいものは有ったが、追い出されて思うように出来なかったと、言っていた。
当時は、昔の家々が並んで、道も狭くて、消防車の水も十分でなかったらしい。そう、総計で、850の家も焼けた大火事だった。
火事で大きくて、荷物を運ぶ度に、自称で{{運び屋}}などが来てから、手伝いましょうと声をかけながら、荷物を運ぶは良いが、持ち逃げされたようであった。親達は、荷物を運ぶために、移動する度に、荷物が少なくなったと言う。
朝の5時頃まで、火事は続いた。最後の荷物を運んだのは、我が少学校のグランドであった。10回以上も荷物を運び変えたであろう。そう、遠いグランドから、空が赤く映っているのを眺めていたのを記憶に残している。悲しみや近所からの出火にも怒りなど感じる程の大人にもなっていなかった。
 その後、親の知人の大きな家に入れて貰ったようであった。
其処に行ってからは、毎日のように、パッチン、ビー玉、コマ回し、ブッツケ(コマをブッツケる遊び)、殆ど、毎日とやっていた。
その頃は、勉強などと、言われた事は無かった。衣食住については、親は苦労したであろう。
やがて小学3年生であろうが、新築の支度に戻ったのは、月日の記憶は明確でない。親が親戚から{{自宅の建設費の金銭を借りるのに、苦労していた。信用金庫から、金銭を借りるのに、なかなかと貸してもらえない。私の婆ちゃんが火事の時に、全部のお金を抱えたまま、隠したままで、金銭も焼けてしまったらしい???。
遊びほうけた日々も終わって、自宅の建築の後には、借金だけがあった。お店も、随分と変わった。親の考えだろうが、これも、ある意味では、当方の勉強もないる。
そう、小学生では、色々と沢山の経験をさせて頂いた。
小学3年生では、当時で、親が何処から借りたのか、知らないが、かなり自宅からは遠かったが、かなりの畑を作るようになった。
人間の糞便などを、畑にばらまくのであった。「「コエタゴ」」であり、これが、後々に又、災いにもなるのでもあった。
自宅からは、随分と遠くにまで行った場所であった。が、電車で行った事は無い。
当時は、「「サツマイモ」を作るのは大変に嬉しかった。サツマイモは、美味しかったし、また、茎も美味しいかった。
まあ、学校も、目的の無いままで、通学していた。親も、日々の生活で、それだけしか考えなかったようである。
((思い出せば、小学1年生では、随分と勉強、勉強と言われて、勉強しないと、押し入れに入れられたり、柱に縛られたりもした))。
今日は、これにて!!。
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